昭和44年11月12日  夜の御理解



  只今御祈念にかからしてもらう前に、久保山さんがこちら、お伺いになりますのに、「先生合楽で、身しのぎが出来ておられると言うのならどの方達でしょうか」と、いうような質問をしておられましたが、実際こう問われてみて、「さぁな合楽で、良い信心をしておられる方は随分ありますけれども、身しのぎが出来るというほどしの信心を受けておる人が、まあ何人あるだろうか、誰だろうかと、まあずーっとこう考えてみますと、なら秋永先生あたりにしても久富先生あたりにいたしましても、う~ん、正義さん文男さんあたり、信心から見ますと、だいたいこう身しのぎが出来られるような気もするけれど、お~まあ本当な意味、それも本当な意味じゃないけれども、石井清さんあたりは、あ~どうだろうか、石井清さんあたりのもんじゃないだろうか」と言うて、お話を、返事さして頂いたことでしたけれど、今私そのことを御祈念中に思わして頂きよりましたらね、今朝からあの、北野の秋山さんが、お参りをされてから、ある一つの難儀な問題を今持っておられるわけですけれども、「その事が、同じような事がこの頃もあったけど、この頃はなかなか、何日もそれは有り難いというものにするためには何日かかかったけれど、先生この度の場合は丁度八時間、だったかね、八時間ぐらいでそれを有り難いものとしてお礼を申し上げれることとして、おかげを頂きまし、丁度こちらへ出がけにその事がすっきりとおかげを頂きました」とこう言う、言うて、お届けをしとった時のことを頂くんです、ははぁしてみると身しのぎというのはですね、どのような事柄でもどのような問題でもです、自分の身を中心にして起きてくる問題、そのそれはある場合難儀と言うても良いかもしれません、その事が全て御神意、全て御神愛、全ておかげとして頂けれるようになるまでが身しのぎですね、ええ、ですからもうこの事だけは有り難いけれども、この事だけは有り難くないという間は、だから身しのぎが出けておる信心じゃないということになるんです、はぁ~なるほど身しのぎとは自分で自分の事ぐらいはお伺いが出けてと、いう風に教祖は説いておられますけれど、本当の意味での身しのぎというのは、ははぁ本当な事が本当に分かる、してみるとこれは、心眼をおいて肉眼っ、「肉眼をおいて心眼を開け」とおっしゃるが、本当に肉眼をおいて心眼を開かなければ分かることではないなと、まあそれが五時間、六時間かかってでも、それが有り難いというものになってくりゃまだ良いけれどですね、本当言うたらそんなに時間をかけてはならない。
  日頃の信心にいつも物言わせるおかげを頂かしてもろうてですね、その事を有り難いとお礼申し上げれるようにならして頂くということが、身しのぎの出来る信心だということになります。
  まあそういう意味でなら合楽では、そうだと信じてその事を、その事に精進しておられる方達は沢山ありますようですね、は尊いことだと思う、けれどもそれを直ぐ即神愛として、それをおかげとして受けれれるという人は、まあないと言うても良いのじゃないかとこう思うですね、本当にお互い身しのぎの出来る信心さしてもわなきゃならんと思いますね。
                                                                       どうぞ。